Duchampianへの道 011 60年代名画座事情
アマゾンプライムビデオどころか、ビデオすらなかった時代である。
邦画・洋画を問わず、旧作・名作を観られるのは名画座に限られていた。
主なところは人生坐、文芸地下、銀後並木座、新宿日活名画座。
ロードショーや封切館に比べてかなり料金が安く、
小遣いが限られる中高生には、それが何よりだった。
うろ覚えだが100円前後、今の物価で700~800円の感じ。
時には二本立て100円で、名作の回顧上映が開催されていた。
封切館(一番館)→二番館→三番館と落ちてきて、さらにその後の邦画、
1930年代から1950年代前半のヨーロッパ映画、いくらかはアメリカ映画……
ただし、これは次回で述べるが、映画会社や配給会社の意向とか権利関係とかで
上映される作品は限られていた。
情報源は、小屋の次回・次々回上映のポスターやチラシ、
主な小屋の上映作品が並んでいる新聞の三行広告、
今週はどこで何をやっているか、こまめにチェックを入れて、
一応は学校に行っていたから、放課後や土日に足を運ぶのが通例だった。
いっぽうでPR映画といって、企業がスポンサーになり
ドキュメンタリーや教育映画が制作され、貸し出し公開されていた。
以前に取り上げた久里洋二の『ゼロの発見』もそのひとつ。
黒木和雄や土本典昭の出発点は、岩波映画でのPR映画づくりである。
日比谷の東京宝塚劇場(現在の前の建物)の5階に常打ちの寄席「東宝名人会」があり、
平日昼間の空き時間にPR映画を何本か無料で上映していた。
黒木の『あるマラソンランナーの記録』はここで観た。
後は新宿の紀伊國屋書店のホールでも、独立系の短編映画を含めて
上映されていたと記憶している。松川八州雄の『鳥獣戯画』とか。
ちなみに今回の写真は、北海道電力企画・黒木和雄監督『わが愛北海道』のチラシ。